【特別コラム】小説の舞台が住まいのトレンドを教えてくれる
小説の舞台は、その時代ごとの住宅事情やトレンドを見事に反映しているものです。今この時代に、古き良きイギリスの推理小説のような「高台にある大邸宅に住み込むお手伝いさん」という設定をスムーズに受け入れることはできませんね。
小説というのは、舞台設定にリアリティがなければ読み手を興ざめさせてしまいますから、作家のみなさんは、時代ごとの住まいの流行りをとても気にかけているはずです。山奥にある古びた別荘は“まさかのトリック”を生じさせるには充分ですが「使われていない屋根裏に繋がるもうひとつの扉があった」というカラクリでは、どうしても今の読者にシンパシーを覚えてもらうことはできません。
「夢の一戸建て」を描いたサラリーマン小説
戦後すぐから高度経済成長期にかけて、源氏鶏太を筆頭にサラリーマン小説というジャンルが流行りました。終身雇用が当たり前の時代、企業に就職した男性の目下の悩みといえば、生涯の伴侶を得ること、社内の人事抗争に突き進むこと、そして、一家の主として住まいを築くこと、この3つでした。たとえ会社から2時間離れた郊外であろうとも一戸建てを建て、満員電車に揺られながら家族のために働くのがスタンダードでした。
これらの小説は、不倫をしたり、派閥争いに負けたり、借金を抱えたり、サラリーマンの浮き沈みを見事に描きましたが、今では、その社会背景や舞台設定はさすがに古めかしく感じられます。とりわけ、「どれだけ郊外であろうとも一戸建てを持つのが一家の夢」というのは時代の流れを感じますね。
老朽化する集合住宅を描いた「みなさん、さようなら」
映画化もされた久保寺健彦「みなさん、さようなら」は、わけあって団地から一歩も出ずに暮らし続ける青年の話です。設定は1980年代、団地内に住んでいた沢山の仲間たちが、ひとりまたひとりと、去っていきます。残ったのは老人たちと、そこへ移り住んでくる外国人たちでした。住まいとコミュニティの在り方というのは、時代のトレンドを表しています。
「住まい」を描こうとしなかったフリーター文学
日本経済が停滞して雇用が流動化すると、興味深いもので、小説の設定にもその影響が派生してきます。2000年代後半には「フリーター文学」「ニート文学」なる言葉も生まれました。文字通りの「ニート」というタイトルの小説を書いた芥川賞作家・絲山秋子の小説は、会社を辞めて、目減りする預貯金におびえながら暮らす現代の若者の姿をうつし出しました。海猫沢めろん「ニコニコ時給800円」、宮崎誉子「派遣ちゃん」などは、タイトルから想像できるように、小説のストーリーに雇用状態や暮らし方が切実に反映されていました。一方で、暮らしていくためのお金と必死ににらめっこしている状態だからなのか、この手の小説に描かれる「住まい」には存在感がなく、物語には絡んできませんでした。
「マンション」を舞台にする現代小説
現代社会に寄り添いながら小説世界を描く売れっ子作家は、さすがに住宅事情のツボを掴んでいます。新興地区に新たに立てられる高層マンションの設計士と鉄筋工を主人公とした吉田修一「ランドマーク」、誰もが憧れる東京圏の新築マンションに住む女性同士の感情が複雑に行き交う桐野夏生「ハピネス」、同じマンションに住む別の住民の視点で8つの短篇集を記した伊坂幸太郎「終末のフール」などは、どういう住まいに住んでいるかがストーリーのポイントになっています。こうして、現代を描く小説の舞台が、「何が何でも一戸建て+郊外」から「利便性の高いマンション+都心」へと移り変わってきているのは興味深い現象です。
小説家というのは常に時代を先んじて捉える人たちですから、現代作家がどういう「住まい」を小説に記しているのかに注目すると、最新の住宅事情が見えてくるかもしれません。